料理人としての意地から始まった薬草との格闘
北平さんが薬草と出会ったのは5年ほど前。飛騨市で2014年に「全国薬草シンポジウム」が開催されることになり、老舗料理旅館で腕を振るう北平さんに、薬草料理を用意する担い手として白羽の矢が立ったのだ。準備期間は半年ほどと短かったが、北平さんは「50種類の薬草料理を用意します」と、宣言したという。
「うちは代々続く料理旅館で、飛騨古川に伝わる伝統料理と四季折々の日本料理で勝負をしていましたが、新たな柱が必要だと感じていました。そんな矢先に出てきたのが薬草料理のプロジェクトでした。2013年でしたが、その年は徳島で『全国薬草シンポジウム』が開催されるというので出向いてみたんです。会場で地元の料理人が手がけた薬草料理を目にして、薬草を料理に活用するのは面白いなと感じました。周りからは『薬草料理は簡単ではないよ』と口々に言われましたが、地元の活性のため、そして旅館の新たな柱づくりのためにも、引き受けなければならないと感じました」
村上先生と出会い、薬草料理を極める
その頃、薬草シンポジウムの準備などのために頻繁に飛騨を訪れていたのが、薬学博士の故・村上光太郎先生だった。先生は日本各地の野山に自ら分け入って薬草について研究し、薬草による健康づくりや村おこしを提唱した、薬草研究の第一人者といわれた人物だ。
北平さんが薬草料理を試作し、村上先生に食べてもらうと「まるで幼稚園児の料理だ」と言われたという。そこで料理人魂に火がついた北平さんは、手探り状態の中、村上先生からのアドバイスをもらいながら、半年間薬草と向き合い続けた。
「宣言通り50種類の薬草料理を完成させたのは、シンポジウム開催日の正午でした。村上先生の指導のもと、薬草のミネラルを逃さず体に吸収できる調理法はもちろん、まずい、苦いといった薬草のイメージを払拭して、薬草をいかにおいしく食べてもらえるかということに心を砕きました。さらに、料理旅館らしく日本料理の要素も加えて、目でも楽しめる料理を目指しました」
どこまでも奥深い薬草料理の世界
「今思えばシンポジウムでの薬草料理はまだ発展途上でした。飛騨には250種類以上もの薬草が自生していますし、調理法に工夫を凝らせば、薬草が前面に出てくる料理から、見えないところで味を支えるものまで、薬草の使い方は奥が深く、研究をすればするほど、どんどんおいしくなっていくんです」
「蕪水亭」で食べられる薬草料理は、例えばクズの花を発酵して作る調味料を酢の代わりに使ったり、クワの葉やイチョウの葉など何種類もの薬草を煮出して出汁をとり、スープや煮こごり、煮汁に使ったりと趣向を凝らしたもので、見た目にも美しい品々が並ぶ。薬草の薬効でもある独特の風味や苦味をうまく生かしながら、おいしく食べられる料理をモットーとしているのだ。
村上先生の意思を継ぎ、薬草で飛騨を元気にしたい
薬草料理に取り組み始めた北平さんが同時に力を入れたのが、薬草を活用したまちづくりだ。NPO法人「薬草で飛騨を元気にする会」の理事長を務め、住民による住民のためのまちづくりを目指している。飛騨市とも協力し、薬草コンシェルジュを育成する講座を開設するほか、地元の人が薬草を気軽に楽しめるイベントやワークショップなども精力的に行っている。
「薬草コンシェルジュは初級から上級まであり、上級の認定試験を通れば自分で講座ができるまでになります。薬草を啓蒙する人が増えることで、地元の人に薬草を普及しようというのが一番の目的です。もともと飛騨市の薬草への取り組みは、医療費の削減や健康寿命の延伸などを目的としています。"薬草で元気になれる飛騨"を実現することができれば、住民が幸せになれるのはもちろん、移住者の増加も期待できますし、観光や商業、農業などにも良い影響をもたらしてくれます」
「村上先生はお亡くなりになりましたが、ご存命のときによく話していたのが、日本列島の各地に薬草村を作り、薬草で村おこし、健康おこしをしようという『全国薬草ビレッジ構想』というもの。まだ薬草村として確立しているエリアはないので、飛騨が薬草のメッカとして各地を引っ張って、村上先生が思い描いていたビレッジ構想の先頭を走っていけたらと思っています」