飛騨への移住に積極的ではなかったけれど...
横浜に住んでいた塚本さんご夫妻は、浩煇さんの母親が飛騨に移り住んだことがきっかけで飛騨に足を運ぶようになり、いつしか自分たちも一軒家を購入。別荘に通うような感覚で、毎週金曜に仕事を終えて横浜から飛騨まで車を走らせ、週末を飛騨で過ごして横浜に戻るという二拠点生活を送るようになった。そんな生活を3年ほど続けているうちに、集落の人たちとも顔見知りになり、浩煇さんの意向もあって飛騨への移住を決意した。
「私は都会暮らししか知らなかったので、移住当初はあまりの環境の違いに戸惑い、横浜を懐かしく感じたこともありました。それでも、せっかくこんなに自然に囲まれた環境にいるのだから、都会に住む人たちが羨ましくなるような生活をしてやろうと思って。目の前の環境をプラスにとらえようとすれば、飛騨は本当に素晴らしいところ。山に山菜を摘みに行ったり、農家さんから出荷できない規格外のトマトをもらってトマトソースやピューレを作ったりと、ここでの暮らしに楽しみを見出していきました」
薬草博士の故・村上光太郎先生との出合い
東亜子さんがすっかり飛騨の暮らしになじんでいた頃、飛騨市では地元の資源である薬草を使った村おこしをしようという機運が高まっていた。役場関係者の引き合いで、東亜子さんは薬草の第一人者である、薬草博士の故・村上光太郎先生と出会う。当時、飛騨に自生する薬草を調べるために度々古川町を訪れていた村上先生に、塚本さん夫妻が寝泊まりを提供することになったのだ。その時期に東亜子さんは村上先生から薬草のことをたくさん学んだという。
「横浜に住んでいた頃は、薬草どころか、外食が多くて自分の体のことはまるで考えていなかったんです(笑)。飛騨に移住してからは自宅でハーブを栽培していたのですが、それを見た先生が『わざわざハーブを育てなくても、日本のハーブである薬草がこんなにたくさん自生しているのに』とおっしゃって...。それからは飛騨にどんな薬草があって、どんな効能があるのかを勉強したり、体に取り入れるためにはどうしたらいいのかということを、先生に教えてもらいながら試行錯誤しました」
みんなで薬草を学ぶ「山水女(さんすいめ)」を結成
村上先生と出会って薬草に関する知識や利用法などを少しずつ蓄積していった東亜子さん。同じく薬草に興味を持つ地元農家の女性メンバーと一緒に「山水女(さんすいめ)」という活動を始めた。山水女とは、毎週第三水曜日に集まることから名付けられたもので、月に一度は4,5人で集まり、ときには村上先生や役場の職員も交えながら、薬草のことを一緒に学んだり、薬草を家庭でとり入れるための加工や調理法を試したりと、楽しみながら活動を続けてきた。
「薬草にハマったのは自分の体のことを考えるようになったから。私は足が悪くて手術をしたのですが、足をひきづるようにして歩いていたときに、村上先生から鳥梅(うばい)がいいよと教えてもらいました。鳥梅はミネラルの塊だから、煎じて飲めば痛みが和らぐというんです。それでさっそく先生に教えてもらった通りに主人と鳥梅を作ってみました。青梅を網に並べて薪をくべて、40℃をキープした状態で1週間燻し続けるんです。そうすると、青梅がカラスのように真っ黒な燻製になります。これを、煎じて毎日飲んでいたら、驚くほど痛みがなくなって。体にミネラルが充満することで10の痛みを5に軽減できるんです」
他にも、塚本邸では肝臓に良いとされるクズの花びらや、血の巡りを良くするメナモミの葉などを乾燥させて粉にしたり、ハチミツと一緒に練って丸薬にしたものを常備し、毎日欠かさず摂取しているという。
薬草が身近にある暮らしを広めていきたい
東亜子さんのところには、薬草について知りたいという人が日本各地から訪れる。「薬草に興味のある人が各地から来てくださるんですが、私たちも来た人から教わることがたくさんあります。発酵について詳しい人、料理に詳しい人なんかがいたりして、話しをするのが楽しいですし、勉強になります。地元の人より、外から来た人の方が熱心だなと感じることが多く、そこはもどかしいですね」
薬草を生活に取り入れるのは実際のところ大変だ。森林に分け入って薬草を摘み、持ち帰って選定し、洗ったり乾燥させて粉末や丸薬にするほか、ものによっては皮を剥いだり、実を燻したりと根気のいる作業がある。
「薬草は確かに手間暇がかかるんです。時間がないとできないし、楽しくないとできない。地元の人で知識があっても、実際に生活に取り入れる人は少なくなっていると思います。でも、自分の体のためにと、少しでも薬草に興味を持つ住民が増えていくといいなと思います。私も薬草を必要としている人には伝えていきたいし、もっと飛騨が薬草のまちとして広まっていけばいいなと思っています」